コロン、と口の中で丸く淡い水色の空味の飴が転がった。
外ではしとしと、と雨が静かに降っている。天気予報では確か、あと3日続くだった筈だ。

しとしと、と。

大学の図書室という場所は大概、講義がない生徒や講師が足を運んで結構賑やかなものだが、この大学の図書室はどうも場所が悪く、生徒達が集まる学食や講義室から大分離れており、人が来ない所為もあり、どこか湿った空気がこもっている。

太陽が厚い雲に隠されている所為で館内は少し寒い。
古くからあるこの図書室には講義室にあるような立派な暖房はない。

晴れている時にはきっと温かい空気がこもっているのだろうと、大きな窓を見て想像する。雨も嫌いではないから、静かに響く雨の音とひんやりとした空気を堪能した。


また、コロン、と口の中で飴が転がり、軽い音をたてて半分に割れた。割れた飴を奥歯でガリガリと噛み砕いていく。
少し薄いサイダー味が溶けてなくなった。


(あめがなく、)


この飴はとある人から貰ったもので、一つしかない。
噛んでしまったことを後悔したが、僅かに残るサイダー味に口角を上げて笑んだ。
ごそ、と慣れた手つきでコートのポケットから煙草を取り出し、愛用のジッポで火を点ける。
ふう、と紫煙を吐き出せば僅かに体温が下がったような気がした。


「敷地内は終日禁煙ですよ」


凛、とした声が空虚とした空間に響く。再びふう、と紫煙を吐き出しながら声の響く方へと身体を向ける。
そこには日に焼けた本を片手に此方を見詰めている青年が居た。


「これは息ですよ、ほら、寒いから」
「その手のものはなんですか」
「これはアレです、チョコシガレット」
「火が点いてます」
「今のお菓子はリアリティに溢れてるんです」


あは、と笑いながら再び窓の方へと向かい、煙草を口に運んで肺いっぱいに煙を吸い込んだ。後ろで大きく溜息をついているのが聞こえた。気がしたことにしておく。


「毎日毎日、熱心ですね」
「仕事ですから」
「誰も来ないのに」
「だからって閉める訳にはいかないので」
「誰も使わないのに」
「本の整理とかありますし」
「誰も此処を知らないのに」
「・・・貴方が知っている」


毎日来てるじゃないですか、と本に目を落としたまま青年が呟いた。
眼鏡の奥にある瞳が文字の羅列を追っていくのが見える。
本は読む方ではないが、ここの本たちは日に焼けているも綺麗な状態だ。
埃が掛かっている場所なんて何処にもない、そんな感じの。
それが青年の性格を現しているかのようで、此方まで嬉しくなってしまった。


「俺は、本は読みませんから」
「でも来てる」
「煙草吸いにね」
「いつも空を見てる」
「暇なんで」
「空の本、あるのに」
「本は読みませんから」


べつに読ませるつもりもない、と言ったようなやる気のないいつもの会話にどこか安心して紫煙を吐き出しながらどさくさに紛れて小さく溜息をついた。
数千とある本の中で、どれだけの本が、彼の手に取られたのだろう。


「君が一番最初に読んだ本はどれですか」
「・・・奥から二つ目の本棚、上から四段目、青いカバーで白文字の本です」
「題名は」
「そらにあめがなく」
「そらに、あめがなく」
「はい」
「覚えてるんですね」
「読んだ本は忘れません」
「特技ですよ、それ」
「趣味です」
「本、取ってきます」
「どうぞ」


奥から二つ目、
上から四段目、
青いカバーで、
白文字の本。

あ、あった、と小さく呟いて空色の本をとる。大分古いらしく、紙は若干茶色く日に焼け、ぱさぱさとした印象を与えた。
ハードカバーはめくり、目次を過ぎ、一章目を眺める。
『春、あめにあう。』と書かれた文字が打ち出されていた。
あらすじを読めば、恋愛小説のようなものだと分かった。


「ありました、そらにあめがなく」
「ありましたか」
「恋愛小説ですか」
「世間ではそう分類されますね」
「似合わないですね」
「それは、どうも」


む、と機嫌が悪くなったのが分かった。分かりやすい青年に笑みを浮かべ、本を片手に彼の前の席に座る。
彼はこの寂れた図書室の司書をしている。この大学の創立者の血縁だとかで、この図書室の司書をするようにと幼い頃から言われていた、この図書室が部屋のようなものだ、と以前言っていた。
だから、きっと彼にとって、誰も来ないのは嬉しいことだ。
そして、彼と会話をしに来ている俺にとっても嬉しいことだった。
自分の部屋に勝手に入って欲しくはないし、二人で話している時間を他人に邪魔されたくはなかった。ただそれだけのことだ。


「もっと難しいの読んでるのかと」
「物語が好きなんです」
「童話とかも?」
「嫌いじゃない」
「俺も、好きです」
「本は読まないんでしょう」
「俺は書くほうですから」
「・・・はぁ」
「作家です」
「そう、だったんですか」
「今はお休み頂いてるんですけどね」
「はぁ」
「此処に来たら書ける気がして」
「・・・・・」
「俺の本があるとも思わなかった」
「どれですか」
「さぁどれでしょう」


にこやかに笑みを浮かべて質問を流す。
見つけた本を開いて本格的に文字の羅列を読み、本の意味を取り込んでいく。



『春、あめにあう。
静かな木漏れ日にうとうととしている時だった、春がきた、そう感じさせる香りが辺りに漂った。』



この本は四季に沿って一人の男女が巡り会う話だった。
作者の名前は生憎、日に焼けてしまい薄くなり、読み取れる物ではなかった。

女性が勤めている図書館によく来る男性は悩みを抱えていた。密かに彼を思っていた彼女は本を戻す振りをして彼に話し掛ける、具合が悪いんですかと。


パラパラとページをめくり、文字の羅列を読み上げていく。
他の本に比べて、幾分か余白が多いこの本は結構読みやすい。
何となく、貸し出しカードを取り出してどれだけの人が読んでいるのかと見てみれば、月に一回、彼の名前が記されているだけで、その他には名前がなかった。
一番最初に書かれている名前は擦れて少し薄くなっていて、周りが少し黒くなっていた。


「君がこの本を初めて手にしたのは12月ですか」
「12月から勤務し始めたので」
「・・・ふむ」
「何か問題でも?」
「いえ、随分古い本なのに、よく読もうと思ったなと思って」
「本を読みたくなるのに新しいも古いもありませんよ」
「そうですね、確かに」


ぱたん、と本を閉じて机に突っ伏して本と睨めっこしている彼を見やった。
耳にかかる程度に揃えられたブラウンに近い髪は清潔感を漂わせ、銀縁の眼鏡は少しばかり近寄りがたいイメージを持たせる。薄い唇は少し荒れていて、痛々しい。
ふ、と此方の視線に気付いたのか青年は不機嫌そうな表情を浮かべ視線で何か?と問い掛けた。その仕草まるで猫で、眼鏡の奥で輝く漆黒の瞳に笑みを浮かべた。


「君はお母さん似ですね」
「・・・母を知ってるんですか」
「えぇ、まぁ」
「・・・・・」
「彼女はこの図書室の司書をしていたでしょう?」
「・・・はい、もう大分前の話ですけど」
「君のように、無愛想ではなかったけど」
「余計なお世話です」
「彼女は結構人気だったのに、誰も此処には来ようとしなかった」
「・・・どうしてです」
「幽霊が、出ると言われていたから」


苦笑いを浮かべてそうポツリと零すと突っ伏していた身体を持ち上げて今度は後に仰け反る。古い天井には今時分珍しい換気用のプロペラがゆっくりと今の時間を示すかのように回っていた。


「もちろん、噂ですけど」
「もう勤めて大分経ちますけど、見たことないですしね」
「居たら困ります、俺が」
「怖いんですか」
「怖いです」


素直にそう告げれば彼は噴出して肩を小さく震わせて笑った。
いい年した男が幽霊を怖がるなんて、と呟けば読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。



「母は、どんな人でしたか」
「そんなの、直接聞けばいいでしょう」
「教えてくれません」
「告げ口してるみたいで嫌です」
「秘密にしますから」


中々食い下がらない彼に仕方ない、と溜息をついて頭を掻いた。
どんな人、と言われても困ってしまう。
彼女、青年の母親とは在学中しか会ってなかったのだから。


「それはもう、明るい方でした」
「他には」
「長く伸ばした髪をいつも一つにまとめていて、清楚なイメージで」
「それで」
「笑うと頬にえくぼが出来るんです」
「知ってます」
「・・・何が知りたいんですか」


困った、と相手に苦笑いを浮かべて両手を顔の横に上げて降参の意を示した。
きっと自分が知っていることは、彼も知っていることで、今更話す様なことはない。
それよか、きっと彼の方が自分よりも知っているだろうと思っていた。


「じゃあ、母の好きな花は何ですか」
「知らないんですか」
「毎回違う花を言います」
「ではそれが好きなんでしょう」
「絶対に違います」


きっぱりとそう言われてしまえば、吃驚して目をぱちくりとさせてしまった。
こういうところも、少し似ているかもしれない。


「彼女の好きな花はカスミソウです」
「カスミソウですか」
「えぇ、他の花の引立て役で、自分もそうありたいと言っていました」
「引立て役・・・」
「彼女の主役は、本たちですから」
「・・・・・」
「何よりも本が、好きだったんでしょう」
「そう、ですか」


彼はそう呟くと嬉しそうに微笑み、先程まで読んでいた本の表紙に目を落とした。
深緑色をしたその本は端の方が擦り切れて緑の中に煤けた白が覗いていた。
背表紙には『来る春、去る冬』と書かれている。


「母でした」
「・・・・・」
「此処の司書になるように言ったのは」
「そうですか」
「此処に入って、初めて読む本はその本を勧めるとも」
「この本は彼女のお勧めでしたか」
「はい、今までの本で一番好きだと」
「・・・・・」
「母が好きなものだから、僕も読もうと思った」
「・・・・・」
「父は、本とかは読まないので」


悲しいような、寂しいような笑みを浮かべて、彼は顔を上げた。
彼の父親はこの大学の学長を務めている。
この大学を作ったのはその先代、彼の祖父にあたる。
彼自体は祖父に面識はないらしく、物心ついた時から父親が治めていたそうだ。


「君のお父さんは確かに、本が嫌いでした」
「何故、なんですか」
「・・・これは、言って良いものか悩むところですけど」
「教えてください」
「彼女、つまり、君のお母さんを夢中にさせているのが、気に入らなかったようです」
「そんな、理由ですか」
「そんな理由です」
「っ・・・くだらない!」
「くだらないです、でも彼からしたら重大なことだったんです」


嫌いになってしまうほど重大だったんです、ともう一度繰り返せば彼は面食らったように此方をみて呟いた。貴方は父が嫌いだと思っていた、と。
嫌いではない、正確には。
彼はこの大学の学長の息子と言うこともあり、人より偉そうにしていたし、顎で人を使うし、喧嘩も盛大にしていた。サボりも容認されていた。所謂、ジャイアンだった。


「勘違いされては困ります、嫌いではないです」
「じゃあ、好きですか」
「好きでもありません」
「・・・・・?」
「・・・苦手、でした」


彼が苦手だった。親の七光りで力を示す彼が。
同時に、その七光りを駆使して彼女にどうにかこうにか取り入ろうとしていたのを知っていた。親同士が決めた許婚だったのだが、全てを手に入れたかったらしい。


「力を示して従わせる、そういうのが苦手でした、今も昔も」
「・・・・・」
「彼女とは政略結婚で、初めから決っていたものでした」
「母が、望んでいた訳ではないんですね」
「彼との結婚を望んでいたのは、彼女の両親でした」
「止むを得ず、ですか」
「えぇ、でも彼女には好きな人がいた」
「・・・・・」
「この本は、彼女が君のお父さんと結婚をする際に送られたものです」
「その人から、?」
「えぇ・・・」


彼女にも彼にも内緒ですよ、と口に人差し指を当てて笑う。
ゆっくりとした手つきで本の表紙を撫で、馴染ませるように題名をなぞる。
この本は冬に書かれたものだ。ちょうど雪が降るような寒い日だった。


「その人は、今は?」
「・・・・・さぁ、俺は知りません」
「でもそこまで知ってるなら・・・」
「もう何十年も前の話ですから」
「・・・・・」
「さて、昔話も終わりです」


がたん、と音をたてて席を立った。
外は大分暗くなってきている、遠くの方で一番星が光ったのが見えた。
そろそろ、夜の帳が落ちる。帳が落ちてしまえば、一気に気温は下がる。
幼い頃から、彼女も自分も寒いのが苦手だった。


「俺は帰ります」
「明日も来ますか」
「明日は来ません」
「明後日は」
「来ません」
「じゃあ、次はいつ来ますか。母のことが知りたいです」
「・・・もう、此処には来ません」
「・・・・・」
「明日、引越しなんです、遠いところに」
「そう、なんですか」
「じゃあ、もう行きます、寒いのは苦手です」
「この大学に僕宛で手紙を下さい、お返事書きます、母のこと教えて下さい」
「・・・・・時間が、出来たら」
「待ってます、ずっと」
「では、また」
「はい、また」


それが彼との最後の会話だった。
ただひたすら静かに、雨が泣くかのように降っている日だった。
しとしと、と、静かに泣いていた。

この大学の端のほうにある寂れた図書室に、二度と足を踏み入れることはなかった。









『春、あめにあう。
静かな木漏れ日にうとうととしている時だった、春がきた、そう感じさせる香りが辺りに漂った。』




女性が勤めている図書館によく来る男性は悩みを抱えていた。
密かに彼を思っていた彼女は本を戻す振りをして彼に話し掛けた。
具合が悪いんですかと。だが、彼は具合が悪いんじゃない、と小さく首を振る。
古くて、もうよれよれの本のページが破れてしまって、悲しい。
そう、呟いて、直せないかと悩んでいた。
破れてしまったページを大事そうに何度も何度も撫でて、我が子を愛でるかのように、古く、よれよれになってしまった本を慈しんだ。
彼女は彼の本に対する真摯な思いに打ちひしがれ、彼にセロテープを渡した。
直してあげてください、と一言添えて。

本が直ると同時に、長く降っていた雨がやんだ。
二人は同時に空を見上げ、春が来た、と呟き、顔を見合わせて微笑んだ。

飴のように、甘い人だ。彼は呟く。
雨のように、優しい人だ。彼女も呟く。


二人が別の道を歩むことになったその夜、彼女は彼に空色の飴を送った。




(あなたいろの、わたしです)






fin.