ぼくはカメラをもって、彼女と公園へと出かけた。その公園は家からは少し離れていて、電車を三駅ほど乗り継いでゆかなければならなかった。しかしなぜぼくたちがそこへ行くのにどちらも不満をもらさず、律儀に電車に揺られるのかと言うと、そこがぼくと彼女が出会った場所だったからだ。
 ぼくは電車の中で本を読む。いつも会社へ行くときも、文庫本やら雑誌やら、そのときカバンのなかに入っているものを何でも読むことにしている。たいていその前の晩に準備を済ませるものだから、朝になってせかせかとしていると、いったいどんな本を入れたのか忘れてしまうことがほとんどだ。それはぼくにとって良い習慣になっている。毎朝のわくわくは、電車の中での全体的に陰鬱とした雰囲気を和らげてくれる。
 ちなみに、ぼくが広げたのは太宰治だった。『ヴィヨンの妻』だ。
 彼女はずっとぼくの隣に座って、窓の外を流れていく景色に目を向けている。今日は平日で、乗客もそれほどいなかったので、外の景色は随分とパノラマに見えたことだろう。

 電車が同じリズムを刻みながら、やがてぼくたちを公園の最寄り駅に運んでくれた。その最寄り駅は高台にあり、あたりの風景を見渡すことが出来る場所になっている。
 ぼくたちは電車から降りて、眼下に広がる緑色の芝生を眺めた。公園にはそれなりに人はいるようで、どこからか声が聞こえる。赤ん坊の泣く声も聞こえた。彼女は横で微笑んでいる。ぼくはそれを見てほっ、とひとつため息をつく。彼女は本当に子どもが好きなのだ。
 階段を下りてゆく。あまり広くないそこで、彼女が階段を上っていく男性とぶつかりそうになる。けれど彼女はその男性をはらりとよけて見せ、ぼくに微笑んだ。ぼくも少し笑った。ぶつかりそうになった男性は、なにも気にするそぶりもなく、ちょうど発車しそうな電車に飛び乗っていった。
 公園まで行くのに、ていねいに舗装された並木道を歩く。若葉が青々と茂っている。
 ふと耳を澄ませいっさいの音をぼくたちのまわりから奪うことができから、きっと生長していく音が聞こえるに違いない。現に彼女は、ずっと耳を澄ませたまま、足音もたてずに、ぼくのそばを歩いている。
「彼女には少しだけでも聞こえていれば嬉しい」そんな気持ちから、カメラのシャッターを無心に切った。彼女が少し驚いた顔をしたので、それを見てぼくは微笑んだ。
 並木道が一気にひらけて、大きな芝生の公園に着く。座るのにちょうどいい場所があって、ぼくたちは腰を下ろす。まわりをぐるりと一周ほど見回す。
 子どもが縄跳びをしている。それを見ながら父親らしき男性がビールを飲んでいる。母親は赤ん坊に哺乳瓶でミルクをやっている。赤ん坊は無心に哺乳瓶からミルクを飲んでいる。犬がボールをくわえて走り回っている、空へ飛んでいけそうなくらい、しっぽを振りながら。
 そんなようすをぼくたちは眺めていた。
「なんて平和な世界」
 と彼女はぼくにだけ聞こえる声でつぶやいた。ぼくは、
「そうだねえ」と相槌をうった。
 そんな話を繰り返しているとき、目の前を親子連れが通り過ぎていった。母親は少し顔をしかめていた。それほどに太陽の光はまぶしい。子どもは不思議そうな目をして通り過ぎてからもぼくたちのほうを見ていた。ぼくは彼に手を振った。彼はそのあと、母親に強く腕を引っぱられたせいで地面に転び、少し泣いていた。
「きっと芝生だから大丈夫よね」
「きっとね。彼はきっと転んだことに泣いたんじゃなくて、お母さんに腕を強く引っぱられたことに泣いたんだと思うよ。抜けるー、ってね」
「抜けたら痛いもんね」
「そうだね。痛いね」

 それからしばらくして、ぼくは彼女の写真を撮った。
 もともとぼくがカメラを買ったのは、彼女の寝顔を残すためだった。ずっと隣りにあった、永遠に色あせない彼女の寝顔は、ぼくにとても心地よい安らぎを与えてくれた。寝息も、少しふれあう体温も、幾たびも重ねたからだも唇も、すべてが今のぼくを形づくっている。
 日が暮れるまで、何度シャッターを切ったかわからないほど、彼女のいる方向にレンズを向けた。彼女はずっと笑ってくれていた。ワンピースのスカートが、彼女が跳ねるたびに揺れる。
 彼女のからだは、夕日に透けるほど白い。そんな彼女の姿を、ぼくは一心不乱に写真に収めようと試みていた。ぼくたちのまわりを、多くのひとが通り過ぎていく。遊ぶには日が暮れすぎている。ぼくと彼女とのあいだを、子どもたちが駆けていく。そこに誰もいないかのように、有り余っている力を放出している。
 ふいに、彼女が言った。
「もう、おしまいにしましょう」
 ぼくはファインダー越しに彼女を眺めていた。
「なぜ?」
「日が暮れてしまうもの」
「日が暮れるまで、あと少しあるだろう」
「話したいことが山ほどあるの」
 彼女は言った。ぼくはただ黙っていた。不意に現実がぼくを襲う。
「きょうはわたしをここに連れてきてくれてありがとう。思い出の場所だったから、もう一度来られてよかった」
 彼女がずっとこちらを見ている。ぼくはファインダー越しにしか彼女を見ることができなかった。
「ここでわたしときみが偶然出会って、芝生でふたりで寝転がって、すこし文学について話したのを覚えてる。わたしときみは、まるで運命みたいに出会ったんだ。本当に運命みたいに」
「うん」
「わたしが死んでしまったことも、また運命なんだよ」
 彼女の白い肌に涙が伝う。もうほとんど透明に近い彼女の肌をぼくはなんとか追いかけている。
「きみがわたしを失って、とても悲しんでくれている。とてもわたしは幸せ。幸せで幸せでしかたがない。でも、わたしは死んでしまったけど、きみがそれに執着するのはよくない。運命は運命として存在するだけで、日常をゆがめてしまう力はないって、わたしは信じてる。きっときみは、これからたくさんの人に出会って、たくさんの恋をするにちがいない。わたしは、そのなかのひとりだったんだ。だから笑って、わたしにさよならと言って」
 日が落ちてゆく。ぼくにはスローモーションに映る。ファインダーから目を離して、彼女を目で確認する。強い風がぼくの身体を揺らす。目に映る彼女のスカートの輪郭は、うっすらとぼやけているだけで微動だにしない。
 彼女と目を合わせる。とてもやさしい目。だんだんと暗闇ににじんてゆく。
「さよなら」
 ぼくはつぶやいた。
 薄くなりゆく彼女がにっこりと微笑んだ。それだけは鮮明に見えた。
 笑った彼女はとても可愛らしく、世界でいちばん、儚かった。

 日が沈んで、彼女は去っていった。
 空には、夕日のかわりに星が輝きはじめていた。
 ぼくはその星空にカメラを向けた。カシャッ、という乾いた音が響いた。